5年が経ちました
息子が亡くなって、5年が経ち、久しぶりに近況報告でも書いてみようと開いたブログ。
読み返してみると、必死に踏ん張って、何とか生に留まっていた3年前の自分がそこにいて、今の自分からの距離に「あぁ、時間が経ったのだな」と切なくなる。
息子が亡くなるとほぼ同時期に、乳がんであること、それがステージ4であることを告げられたとき、正直に言えば、「このまま人生を終えられたら、それはそれで楽だな」と思った。
「病気によって死が訪れれば、自然な形でこの苦しみから解放される」と感じたから。
でも、人生はそんなに都合よく終わってはくれず、気づけば、会社員を辞め、長野に移住し、息子が亡くなり、全てのものが焼失し、左胸を切除し……と、目まぐるしかった40代が終わり、50代へ突入。人生100年時代における、後半戦が始まった。
振り返ってみれば、会社員を辞めたことも、長野に来たことも、すべては息子とのご縁の中にあって、外側の価値に執着し、内側は臆病で、見栄っ張りで、頭ばかり使い、心を閉じていたわたしの前半生を、最期にはその死をもって大きく転換させてくれた存在ーそれが息子だったんだと改めて気づく。
彼の死を受けとめていく時間は、端的に言えば、自分の未熟さ(恐れのすべて)と向き合う時間で、到底受け入れがたい「未熟で、不完全な自分」という事実を赦しながら、同時に「すべてはつながっている」という安心へと少しずつ歩いていくプロセスで、このステップは今もなお継続中。
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生きていると—肉体があると—、嬉しいことも、楽しいことも、悲しいことも、腹が立つことも、苛立つことも、びっくりするほど色んなことが、誰にでも必ず起こる。
そうやって日々起き続けるあれこれを、さまざまなご縁と、湧き起こる感情の中で、できるだけまっすぐに受け止め、体験していく。
それが「生きる」ということなんだと思う。
起きることすべては、個々人の都合を超えた大きな調和の中にあって、すべては愛に基づいている。そのことへの信頼だけが、人を癒したり、救ったり、成長させたりできるのかもしれない。
愛は、美しくきれいなだけでなく、時にはすべてを破壊するほどの、強烈な光でもある。
あまりの激しさに、苦しみや絶望にもがいてのたうち回ったとしても、結局は大きな調和と愛に生かされて、いま、ここにいる。
生きるとは、なんとまぁ……苦笑。
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この5年、息子がいない日常を生きることが辛くて、しんどくて、旅をしたり、本を読みふけったりと、非日常をつくることで、何とかやり過ごしてきた。
でも、そろそろ新しい日常を、あらためて設定し直すタイミングに来ているような感覚が。
そんな自分を赦しながら、癒しながら、書いた久しぶりのブログ。
これまで書いてきたものに比べると、随分と穏やかで、くつろぎと愛に満ちたものになっているような(そうだといいな)。
意図することのちから
昨日、久しぶりにブログを書いた。
苦しくて、ただ吐き出したかったのだけれど、書いているうちに癒され始めて、最後は魂の願いがあふれてきた。
見たくないものをまっすぐに見る。
感じたくないものをそのまんま感じる。
その勇気は、ありのままの自分を受け入れる愛。
いくら他人に慰められても、称賛されても、共感してもらったとしてさえも、大した効果はない。
結局は自分で自分を抱きとめるしかなくて、でもそれは効果絶大。
何物にも代えがたい、癒しのセルフラブパワー。
だから「自分を癒せるのは自分だけ」なんだな。
悲しさは誰かと繋がりたいとき。
怒りは何かを大事にしたいとき。
恐れは本質に近づいているとき。
ただそのまんま感じて受けとめる、その勇気=愛さえあれば、これからもきっと大丈夫。
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「宣言」することについて。
いわゆる”意図”のちから。
思考から、外側からもたらされる、
「~をすべき(~になるべき)だから、これが欲しい」
っていう願いではなくて、ただ純粋に、直観的に
「こうなる」「これを手に入れる」
って内側から湧いてくる”魂の意図”。
日記や手帳に書くのもありだけれど、今はSNSでささっと世界に(宇宙に)公開ができちゃうから、無責任に、好き勝手に宣言したいと思う。
例えば昨日書いたこれ。
「私の悲しみと苦痛と怒りを解放し、癒します」
そしてこれも。
「魂がずっと知りたかったことを、体験しにいこう。…
深呼吸をして、思考をオフにして、ただただ自分を感じにいく。」
書くプロセスの中で、感情が浄化されて、自然と意図が立ち上がって、公開したことで宇宙に響いた。
そうなると早いね。今朝はゆったりと静かで、くつろいだ自分がいたから。
シェアするともっとパワフルなんだろうけれど、エゴにまみれてしまうような感覚があって(ここは探求しどころ)、まずはこの日記でまっすぐ自由に書く。
夕日をみながら、カエルの声をききながら、いまを生きている私、そして地球を感じる。
明日も自分の内側に集中して、くつろいで生きます。
今日も一日ありがとう。
悲しさ、苦しみと向き合う
苦しみや悲しさと向き合うのは難しい。
本当は自分がどれだけ悲しいのか苦しいのか、傷ついているのかを知るのは怖い。
何かがあった時には見て見ぬふりをして、逃避して遊ぶか、無理やり「大丈夫」と言い聞かせるか、体調不良ということにして数日ひきこもるかして、やり過ごして(ごまかして)きた。
そうしていると、苦しみや辛さと向き合う力がどんどんなくなっていく。
自分の悲しさ、苦しさと向き合うやり方がわからない。
お腹の底の方に、途方もない悲しみと苦痛、そして怒りがある感覚はある。
だけれど、それに触れたら、解放したら、心が壊れてしまうのではないかと怖くてたまらない。
私の中の醜くて汚いものがあふれ出てしまうのではないかとも感じる。
こたがいなくなってしまったことだけでなくて、これまで溜め込んできたものが一気に噴き出してしまうのではないか。
どこかで、
「この体験の中でさえ悲しみや苦痛を直視できないなら、どうしたらいいのか?」
「ぼろぼろになればいい、むしろ味わい、解放するためにこの体験があるのだ」
そう感じてはいる。
そして、そろそろ限界なことにも気が付いている。
なのに、逃避につぐ逃避の日々。
今月はこたの誕生月。
いなくなってしまった子の誕生日をどうやって過ごしたらいいのか。
「おめでとう」と言ってくれる人にどんな顔をしたらいいのか。
覚えてくれているのは本当にありがたいけれど、プレゼントやメッセージをもらっても、苦しい。
みんなの気持ちに笑顔で「ありがとう」と言いたいのに、つらい気持ちになってしまう。
そんな自分が嫌なのに、やっぱり笑顔で「ありがとう」というのか。
そんな私を、こたはどう思うのか。
このところ、泣いてばかりだ。
なんで涙が出るのか。直接的な理由はわからない。
でも、こんなに涙がでるからには、溜まりにたまったものを直視して、吐き出すしかないのだろう。
その時期がきたのだ。もう、これ以上逃げられない。
この時のために、いろいろなことを学び、たくさん準備をしてきた。
まずは、静かに宣言。
「私の悲しみと苦痛と怒りを解放し、癒します」
しばらくは社会から距離を置いて、自分の内側から気を散らさず、自然と共に呼吸をしよう。
「自分を癒せるのは自分だけ」
わかってる。わかってるよ。
本当の、宇宙的な癒しとは何か、赦しとは何か。
魂がずっと知りたかったことを、体験しにいこう。
怖いけど、逃げたいけど、こたが作ってくれた道だから進むしかない。
深呼吸をして、思考をオフにして、ただただ自分を感じにいく。
今夜の夢の世界から、癒しの旅へ。
何があったって、生きてるのが一番

まるで通過儀礼-イニシエーションのような激動の一年が過ぎて、46歳になった。
小さいころからなぜか人生90年と感じていて「ちょうど半分」という感覚と「全く新しい人生が始まる!」という予感にあふれて迎えた去年の誕生日。
9月にセドナ、誕生日直前には熊野を旅して準備万端。まさか、前半生の総仕上げのような、生きる意味を、こんなにも問われる1年になるなんて思ってもいなかった。
12月14日。エナジーワークの合宿でハワイ島にいた私に突然降ってきたのは「長野の家が大きな火事になっている」という知らせ。
そして、長野の家は完全な全焼となって、何一つ残らなかった。
こたがこの世にいたんだということを示す、母子手帳や写真。使っていた洋服も、ゲームも漫画も。こたの面影を感じられるものの全て。年月をかけてわたしの手元に来て、共に生きた、わたしがどんな人なのか、だれなのかを示す品々。いまは亡き祖母に買ってもらったパール、集めてきた食器やキッチン用品、アクセサリーや時計。旅先で買ったあれこれ。日用品やレジャー用品の数々。更新する旅に手元に残していた古いパスポート。
日本に戻ったら、こたも含めた全てが消えていた。
あの日、こただけじゃなくて、それまでのわたしの人生も、消えてなくなったんだと思った。何度考えても続きな感じがしない。体は同じだけれど、わたしが誰なのか、何なのか輪郭がぼんやりしていて、パラレルワールドに吹っ飛んでしまったような。
どうしようもなくて、気づけば2月の沖縄、6月のハワイ島、9月の東北と旅ばかり。自分と現実から距離を置いて、ある意味では休息、ある意味では逃避、そして少しずつ真実と向き合っていった10か月。
なのに、前半生の締め、終了間際に待っていたのは乳がん。「スピリチュアルな人生を堪能したいんだよね?心の底から宇宙や自分の真実とつながりたいんだよね?じゃぁこれはどう?」とばかりの約2.5センチの左胸のしこり。
一体、何なんだろう。もう笑うしかない笑。
46歳の誕生日の今日、ハワイ島にいて、とりあえず私は生きてる。
ハワイ島はいつだってパワフルで、たくましく躍動していて、美しくて。
最愛の子どもと全所有物を失って、乳がんになって。
どうみたって不幸のトリプルパンチなのに、世界がどんどんビビットになって、去年の誕生日より今の方が幸せを、生きる意味を、命を、愛を感じているなんて。
Happy birthday to me.
こんな私がいまここに生きていることに、きっと何か意味があると信じて。
エナジーリーディングってなに?

エナジーリーディング111をスタートして10日ちょっと。
多くの方にお申し込みをいただいて、嬉しいのと同時に、大きな反応にちょっとびっくりもしています。
「おにぎりが好き」は堂々と言えるのに「スピリチュアルな世界が好き」って言いにくいなぁとずっと思っていて笑。
でも、もうそんな時代じゃないんだな。みんながどこかでわかっている。感じている。オーガニックな、本質的な世界があることを。
自分の真実は、社会や他人に作られるものではないことを。
スピリチュアルってなに?どういうこと?と聞かれることもあって、言語化するのは正直とても難しい。でも、木々の中にいると気持ちがよくてほっとする、海につかるとなんだかさっぱりする。そんな感覚もスピリチュアルな世界とつながっているように感じています。だから、全然特別なことじゃなくて、おにぎりと同じ。
エナジーリーディング111を始めてなにより嬉しいのは、ギフトがちらほらあることと、受けてくださった方が次の方をご紹介してくださるケースが増えているということ。
つながっていくご縁が本当に嬉しくて、一期一会のリーディングをとても大切にしています。
エナジーリーディングでは多くの時間を私が話しをしますが、感覚としては、読ませていただく方それぞれの本を読み上げているような感じというか。私の思考や判断はほとんど使わずに、ただ見えたものをそのまま言語化してお伝えしているので、アドバイスをするとか、特別な情報や知識をお渡しするものではありません。そこがリーディングの本当に大事なところ。ただただ、まっすぐにお伝えしています。
アドバイスや情報や知識があふれかえっている今、自分の真実、本当に自分がどう考えているのか、思っているのかを感じることや、見極めることって本当に難しい。私自身も自分がどうしたいのか、なんでこんな感覚があるのか、わからないことも迷うことも多くて、エナジーワーカーの仲間にしょっちゅう見てもらっています。
「みのりちゃん、ちょっとここ(自分の内側)にある、私の真実の本よんでくれる?」そんな感じで、リラックスしてエナジーリーディングに来てくださったら嬉しいです。
リーディングが終わって目を開けた時に、自分の真実に触れた喜びで目の前にいる方の顔が明るく、きらきらしているのをみるのが、エナジーリーディングをさせていただく何よりの喜びです。
もがいて、あがいて、生きてる

コタの死をどうしても受け入れられなくて、あんまりにも怖くて、どうしようもなくて、あれからずっと起きたことを分離し、こたが生きていたことすら閉じ込めて、生ぬるいファンタジーの中にうずくまってた。
なのに、気仙沼は鎮魂の聖地のようで、恐山は天国のようで。
ぶっ壊れて、鼻水垂らしてがんがん泣いた。
なんでこたは死んだんだ。返してくれ。
会いたい、触りたい。
なんにもいらないから、お願いだから。
ゆるせない、ゆるさない。
どろどろに溜まってた憎しみも、怒りも、悲しみも、
自分でもびっくりするくらい泣きまくって荒くれた後に現れたのは
こんなにもこたを愛してるんだ。
わたしはこれからも生きていくんだ。
大きなものにたっぷりと愛されてる。
なんて幸せなんだろう。
なんにも怖くない。
旅が後半にいくにつれ、体は疲れていく。
でも感覚はどんどん開いて、いいことも悪いことも(止まってるバ
エゴにまみれてる自分も、みっともない自分も、甘ったれで弱い自分も、嫌すぎて全部見ないで、かっこつけて、理屈をつけて、
そんなわたしの内側、周りの人にはお見通しだったんだろうな。
もういいです。
お手上げです。
ありのままの自分をガン見したい。
未完成で、もがいてあがいて生きてるわたし。
そんなわたしがいまここにいることにも、
愛も闇も同じ。
何もかも、生も死も、ただある。
全ては繋がっていて、ただ起こる。
最高の10日間だったなぁ。
人生そのものをクレイジーなスピリチュアルジャーニーとして生き
あぁ、普通からますますどんどん外れてく。
(普通を意識してる、人の目を気にしてる自分をガン見して爆破 笑!)
もういいや。
うん、いけるところまで行ってみよう。

こた、ありがとう。愛してる。
2020年12月14日。
息子であり魂の師匠であるコタが、亡くなりました。
あまりに突然のことに、起きていることが理解できず、もがき、苦しみ、のたうち回りながら、何故なのか、どうしてなのかと問い続ける日々。
日常は日常で無くなり、当たり前は当たり前ではなくなり、未来は過去の延長ではなくなりました。
伸び盛りの細い体をハグしたり、汗ばんだ手を握ったり、日なたのような頭のにおいをかいだり、ちょっと高い独特の声やはにかんだ笑顔の可愛さに癒されたり、お互いに腹が立ってけんかしたり。もうできない。二度と触れない。絶望。
まさかこんなことになるなら、と渦のように湧く苦い後悔、強烈な喪失感と寂しさで、いまも痛みと共に過ごしています。
でも、いま、記したいことは、伝えたいことはそういうことではなくて。
いまのこの強烈な体験、痛みから、何とか呼吸を整えて一歩でも外に出てみると、そこには変わらない、コタと私の深いつながりがあります。
肉体が無くなり、スペースはリニューアルされたけれど、そこには「まぁ、ママなら大丈夫っしょ、がんばれ」とにやにや笑っている、私への大きな、本当に大きな愛と信頼のあるコタがいるように感じます。この体験をわたしがどう受け止めていくのかを、楽しみに見守ってる。そんな感じ。
だから、わたしはこの体験をまっすぐに受け止めて、しっかりと味わいながら、先に進みます。いつかわたしにも訪れる、体から魂が離れるその日まで、ただありのままに生きていきます。
それがコタへの、私自身への愛であり、信頼だから。
コタが去った12月14日は新月で、今夜はあれから8回目の新月。
この8か月、苦しみの底にいながらも、感じ続けている“愛”と“光”、“癒し”と“赦し”。
これが、私のキーワード。
コタは私の息子であり、魂の師匠であり、さらには宇宙的な、ちょっとした神さまみたいな、そんな存在なのだと感じて、「ありがとう」しか出てこない。
そして、きっとすべての人は宇宙で、ちょっとした神さまなんだと思う。
コタ。
そうげん、こだちゃん、ふーちゃん。
ありがとう。大好き。愛してる。