意図することのちから

 

昨日、久しぶりにブログを書いた。

苦しくて、ただ吐き出したかったのだけれど、書いているうちに癒され始めて、最後は魂の願いがあふれてきた。

 

見たくないものをまっすぐに見る。

感じたくないものをそのまんま感じる。

 

その勇気は、ありのままの自分を受け入れる愛。

いくら他人に慰められても、称賛されても、共感してもらったとしてさえも、大した効果はない。

結局は自分で自分を抱きとめるしかなくて、でもそれは効果絶大。

何物にも代えがたい、癒しのセルフラブパワー。

だから「自分を癒せるのは自分だけ」なんだな。

 

悲しさは誰かと繋がりたいとき。

怒りは何かを大事にしたいとき。

恐れは本質に近づいているとき。

 

ただそのまんま感じて受けとめる、その勇気=愛さえあれば、これからもきっと大丈夫。

 

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「宣言」することについて。

いわゆる”意図”のちから。

 

思考から、外側からもたらされる、

「~をすべき(~になるべき)だから、これが欲しい」

っていう願いではなくて、ただ純粋に、直観的に

「こうなる」「これを手に入れる」

って内側から湧いてくる”魂の意図”。

 

日記や手帳に書くのもありだけれど、今はSNSでささっと世界に(宇宙に)公開ができちゃうから、無責任に、好き勝手に宣言したいと思う。

 

例えば昨日書いたこれ。

「私の悲しみと苦痛と怒りを解放し、癒します」

 

そしてこれも。

「魂がずっと知りたかったことを、体験しにいこう。…

深呼吸をして、思考をオフにして、ただただ自分を感じにいく。」

 

書くプロセスの中で、感情が浄化されて、自然と意図が立ち上がって、公開したことで宇宙に響いた。

そうなると早いね。今朝はゆったりと静かで、くつろいだ自分がいたから。

 

シェアするともっとパワフルなんだろうけれど、エゴにまみれてしまうような感覚があって(ここは探求しどころ)、まずはこの日記でまっすぐ自由に書く。

 

夕日をみながら、カエルの声をききながら、いまを生きている私、そして地球を感じる。

 

明日も自分の内側に集中して、くつろいで生きます。

今日も一日ありがとう。